海口市三江鎮 上雲村

       
   

虐殺現場に通じる道
虐殺現場を示す呉育新さん(1933年生)
 
 農暦1942年4月7日午後4時ころ、近くの竹家山村の炮楼にいた日本軍が来た。
 日本軍はそれまでにもしばしば来ていた。  この日、日本軍は村人を村はずれの空き地に集め、共産軍がどこにいるかを訊ねた。
 村人が知らないと言いつづけていると、とつぜん日本軍は機関銃を撃ちはじめた。
 年よりも子どもも殺された。集められた村人は34人だったが、そのうち31人が殺された。
 わたしは、隣の福山村に逃げて助かった。日本軍は、家を燃やした。そのあと8年間、わたしの村は“無人村”になった」。  
日本軍に焼かれた家が廃墟となって、いくつも村のなかに残されている
犠牲者の墓地
 虐殺された犠牲者は、現場から100メートルほど離れたところに埋められた。   家族全員が殺された人たちの墓は、いま潅木で覆われている。 
犠牲者の墓碑

陳愛梅さん(1932年生)、馮所福さん(1922年生)
 
馮所福さん
 「わたしの家は7人家族だったが、あの日、母と2人の妹と弟が殺された。
 母は55歳、妹は12歳と11歳、弟は7歳だった。そのあと父も殺された。
 日本軍が来てから生きていくのが難しくなった。つらかった。食べるものがなかった」。


陳愛梅さん
 「わたしの村は、厚大村。日本軍は、わたしの村にもなんども来た。
 来るたびにみんな逃げた。日本兵は、ズボンをはいていなかった。
 白いきれで腰をまいていた。鼻の下に髭をつけているのが多かった。
 日本兵は何でも焼いた。コメや牛や鶏やマンゴーや、なんでも盗っていった。
 日本軍が来る前はよかった。腹をすかすことはなかった」。
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